濡れる想い
保育園で必ず設けられている、お昼寝の時間。
埃と湿気った綿の匂いに包まれる、幼児にとってはなくてはならない至福のひと時。
どちらかといえば、この時間が苦手だった私は、薄ら目を開けて天井を見たり、横で寝ている自分と同じ小さな生き物を見て、いつか襲ってくるであろう睡魔を待っていた。
お昼寝の時間が正確に何分あったか記憶にないが、終わりに近づくとフワッとした不思議な眠気がやってくる。
先生の声で目を覚まし、夢現の中、不快な感触を感じる。
お漏らしだ。
いつものようにトイレに促され、予め準備された下着に履き替えさせてもらう。
白い下着にぽっかりと空いた2つの穴に足を通し、顔を上げたそこには困り顔をしたタマタニ先生がいる。
いつもの風景だ。
迎えに来た母に持たされるのは尿を洗った、ナイロン袋に入れられた私の白い下着。
またか、と、困り顔の母の顔。
いつもの風景だ。
自分でも止めることができなかったお漏らしは、お昼寝の時間だけでなく、毎日の睡眠でも訪れる。
お漏らしの昼寝布団と家布団、当時は洗濯機で洗うことなどできず、恐らくは手で洗い流した後、天日干しにしていただろう。
そう考えると、母とタマタニ先生をはじめとする保育園の先生方には大変申し訳ない思いでいっぱいになる。
アルバムを開くと、そこには母の高校の同級生だったという、くるくるパーマが特徴のヤスモトのおばさんの娘2人と、私の姉との4人が写った写真がある。
俯き、眉をひそめて写っている私の股間は、濡れている。
眠っているときだけでなく、起きているときも尿を我慢できない子供だったようだ。
理由はわからない。
ただ、アルバムには股間を濡らし、神妙な面持ちの私が何人かいる。
現在の仕事を始めてから、実に数十年振りに、まずはヤスモト妹と偶然再会した。
久しぶりなんて、ありきたりで差し障りのない会話をしたけれど、お漏らしを繰り返していた私が、彼女の目にどう映っていただろうか。
それからまた数年後、ヤスモト姉にも仕事を通じて再会する。
共通の方を通じて「会いたいね」とお互いに話していたが、実際に会うと、なぜだかヤスモト姉の様子がおかしい。
社会的な立場もあるからだろうが、昔のようにちゃん付けで呼ぶこともない。
どこか余所余所しさを感じさせる。
ヤスモト姉がイメージしていた私と、現実の私とが、あまりにもかけ離れていたからなのか、原因はわからない。
そんな彼女に私も馴れ馴れしく接することが躊躇われる。
臆病な私はまた、ヤスモト姉に以前のような態度で接することができず、なぜ余所余所しいのか問うこともできないにもかかわらず、仕事で会える日を密かな楽しみにしている。
どうか、余所余所しさの原因がお漏らしでないことを祈るばかりだ。