私の墓

墓場まで持っていきたいが、いま吐き出したい自分の思いと過去

存在への日課

私の日課の一つに神棚への塩と水、米のお供え物と松の水替えがある。

余程、時間に余裕のない時以外は毎日している。

正確には思い出せないが10年以上続く日課だ。

 

うちの神棚には一社造りの宮形へ、総氏神である神宮大麻、土地の氏神様、崇敬神社のお神札の順に祀ってある。

神様を迎えるにあたっては氏神様を祀っている神社へ妻と一緒に相談に行き、1階に祀ってもよいのか、造りはどうしたらよいのかなど尋ねた。

宮司の奥様も丁寧に対応くださっていたのだが、突然、

「神棚の前で性交してもよいのでしょうか。失礼にあたりませんか。」

真剣な顔で奥様に質問する妻。

ぎょっとする私。

おそらく奥様も驚かれたに違いない。

空気の読めない私だが、場の空気が一瞬固まったのを肌で感じることができた。

一瞬、ほんの一瞬の静寂の後、「ええ、大丈夫ですよ。」と穏やかな、それは神社でありながら菩薩のような笑みで答える奥様。

「そうですか、わかりました。」

何事もなかったように氏神様のお神札をいただく妻。

そんな夫婦の性生活のことを質問するなんて聞いていなかった私は、どうしてあんなことを聞いたのかと乗り込んだ車の中、口に出していた。

「え、だって気にならん。神様に失礼にならんかなって思って。」

 

成程。妻は神様を目には見えないが、確かにそこに存在するものとして考えている。

私のように、想像上の、存在はしないものの皆が崇拝しているので倣っているという、不純な気持ちで神社にお神札をいただきに参ったのではなかったのだった。

それから、身長の低い妻に代わってお供え物をし、家族の無病息災を祈ることが習慣となった。

確かにそこにある存在として。

 

そんな或る日、いつものように家族の無病息災を祈ろうと2礼2拍手した時にはっと気が付く。神棚へのお供え物と松の水の交換をしていないことに。

慌てて日課を済ませ、改めて2礼2拍手1礼で祈祷。

ふと思う。

神様の立場からしたら4礼4拍手1礼をされたことになる。

これは流石にしつこいのではないか。妙に念入りに祈祷してくる人間だ、と思われないだろうか。今日は手順を間違えたから無病息災は無しとする、と審判されるのではないだろうか。

 

目の前の確かな存在に、今日も戦々恐々としながら日課を済ませる。

そこに生える

「あ、村山が。」

そう言って、私の顔に手をそっと近づける妻。

 

ふと、中高年の鼻の穴を見ると、控えめとは言えない格好で毛が主張していることがある。

これが高齢者となると耳の毛までもが激しく主張してくる方もある。

体毛は体の部位を守るために生えていると耳にしたことがあるが、そんなにはりきって守らなくてもと感じる。

鼻毛は排気ガスやチリなどから守るためと、まだ納得がいくのだが、耳毛は一体、なにから守ろうと頑張ってくれているのか、甚だ疑問ではある。

 

そんな私も今では立派に中高年の仲間入りを果たし、髪の毛に白いものが混じるようになった。

「あの人は頭にペタペタいろんなもの塗ってたから剥げたんだ。」

と、母から父が30代前半で禿げたという話を聞かされていたため、いつ「くる」だろうかと怯えていたが、幸いに毛根の頑張りによって、何とか私の頭には髪が残っている。

 

しかし、加齢による変化は他にも現れるのだ。

気がつかないうちに、そっと。

 

そっと、私の顔に手を近づける妻。

ブチッ。

妻の手には1本の毛。

それは、およそ眉毛とは思えない長さの毛だった。

「村山首相か。」

とてつもない長さの眉毛を携えた首相のように、私の眉も順調に歳を重ねているのだ。

 

一体、未来の姿は一体どうなるのか。

欲しいところには髪が残らず、守つてもらう必要のないところには毛が生え、歯は抜け、足腰が弱り、誰かの手助けがないと生活できない、所謂、一般的な高齢者像を思い浮かべる。

 

せめて鼻の穴を覗かれても、耳の穴を見られても、恥ずかしくないように身なりには気をつけていきたい。

そして、息を引き取ってエンゼルケアを受けるときには、

「他のおじいさんと違って、鼻毛も耳毛もなくて、とてもきれいね。」

と言われたい。

 

そんな些細な私の願い。

濡れる想い

保育園で必ず設けられている、お昼寝の時間。

埃と湿気った綿の匂いに包まれる、幼児にとってはなくてはならない至福のひと時。

どちらかといえば、この時間が苦手だった私は、薄ら目を開けて天井を見たり、横で寝ている自分と同じ小さな生き物を見て、いつか襲ってくるであろう睡魔を待っていた。

お昼寝の時間が正確に何分あったか記憶にないが、終わりに近づくとフワッとした不思議な眠気がやってくる。

 

先生の声で目を覚まし、夢現の中、不快な感触を感じる。

お漏らしだ。

 

いつものようにトイレに促され、予め準備された下着に履き替えさせてもらう。

白い下着にぽっかりと空いた2つの穴に足を通し、顔を上げたそこには困り顔をしたタマタニ先生がいる。

いつもの風景だ。

 

迎えに来た母に持たされるのは尿を洗った、ナイロン袋に入れられた私の白い下着。

またか、と、困り顔の母の顔。

いつもの風景だ。

 

自分でも止めることができなかったお漏らしは、お昼寝の時間だけでなく、毎日の睡眠でも訪れる。

お漏らしの昼寝布団と家布団、当時は洗濯機で洗うことなどできず、恐らくは手で洗い流した後、天日干しにしていただろう。

そう考えると、母とタマタニ先生をはじめとする保育園の先生方には大変申し訳ない思いでいっぱいになる。

 

アルバムを開くと、そこには母の高校の同級生だったという、くるくるパーマが特徴のヤスモトのおばさんの娘2人と、私の姉との4人が写った写真がある。

 

俯き、眉をひそめて写っている私の股間は、濡れている。

 

眠っているときだけでなく、起きているときも尿を我慢できない子供だったようだ。

理由はわからない。

ただ、アルバムには股間を濡らし、神妙な面持ちの私が何人かいる。

 

現在の仕事を始めてから、実に数十年振りに、まずはヤスモト妹と偶然再会した。

久しぶりなんて、ありきたりで差し障りのない会話をしたけれど、お漏らしを繰り返していた私が、彼女の目にどう映っていただろうか。

 

それからまた数年後、ヤスモト姉にも仕事を通じて再会する。

共通の方を通じて「会いたいね」とお互いに話していたが、実際に会うと、なぜだかヤスモト姉の様子がおかしい。

社会的な立場もあるからだろうが、昔のようにちゃん付けで呼ぶこともない。

どこか余所余所しさを感じさせる。

 

ヤスモト姉がイメージしていた私と、現実の私とが、あまりにもかけ離れていたからなのか、原因はわからない。

そんな彼女に私も馴れ馴れしく接することが躊躇われる。

 

臆病な私はまた、ヤスモト姉に以前のような態度で接することができず、なぜ余所余所しいのか問うこともできないにもかかわらず、仕事で会える日を密かな楽しみにしている。

 

どうか、余所余所しさの原因がお漏らしでないことを祈るばかりだ。

発汗と赤面

人前で話すことが苦手だ。

仕事上、仕方なく人前で話す機会も多く与えられてきたが、そう簡単に慣れるものではなく、ふと気がついた時の体に流れる大量の汗。

脇や手の平、背中や胸、足の裏まで垂れるくらい。

 

何より嫌なのは赤面すること。

カーっと頬や耳たぶが熱く、赤くなっていくのを自覚するともう止められない。

「何かおかしなことを言ってしまったのか。」

「あれ、もしかして自分の発言で空気が変わったかも。」

ネガティブな思考が頭を巡り、話していたこともそこそこに発言を切り上げてしまう癖がある。

また、端から「上手く伝えられない」と頭で考えてしまうと、発言そのものを諦めてしまう。

講師として人前で話をする以上、そういったことは許されないので、いい加減な発言で茶を濁し、思考を段々とクリアにしていく。

それで6時間ほど講義を続けられるのだから大したものだ。我ながら。

 

「答えられないんですか。」

小学校2年の担任だった高田先生の言葉。

言われた言葉は曖昧になってきているが、クラスメイトたちがじぃっとこちらを見つめる中、問われた問題が分からず自席で立ちつくす自分。

次第にぼやけ、滲んでいく視界。

その後、どのように許され、席に座ることができたのかは記憶にない。

 

人前で話すことに加え、人と接することが苦手となるきっかけが高校生の時に訪れるのだが、この小学校2年の出来事が一つのきっかけとなったことは間違いない。

 

忘れることのできない悔しさともどかしさ、羞恥心。

高田先生のおかっぱのような髪型と真っ赤な口紅。

闘いは続く

夕方になると便意を催すか、または腹部の膨満感による腹痛を生じる。

受診はしていない。

自分なりに調べてみると、どうやらガス溜まり腹痛の症状が一番近いようだ。

それが考えられる理由として、職場を退勤した直後にオナラを何度も放つからだ。本当に何度も。

当時は原因不明だったが、勤務中に強烈な腹痛に見舞われ、結果、腸閉塞と診断され入院したことがある。

「手術はしなくていいの。」

と、入院直後や退院後もしばらくは家族の他、職場の方達にも問われることが多かったのだが、オナラが溜まったために入院したとは言えず、「原因不明なんだけど、手術はしなくてもいいって。」と、“原因不明”という便利な言葉で曖昧に濁していた。

 

研修医に対する実習も兼ねての胃カメラや、レントゲンなど、諸々の検査を終えた私は一週間も経たないうちに退院となった。

なるべくガスを溜めないように運動や腸内環境の改善を心がけてはいるが、未だに夕方のガス溜まり腹痛は収まる気配がない。

 

ガス溜まり腹痛の質が悪いのに、肺が圧迫されることで起こる呼吸困難が症状の一つとしてあることだ。

思い当たる節がある。

楽しく会話しながら矢継ぎ早に食べ物や酒を口にしているとほぼ100%の確率で呼吸困難が襲ってくる。これは食べ物などと一緒に、大量の空気を飲み込んでしまっているからに他ならない。

家族との焼肉では、ゆっくり食べることを心がけないと大変な迷惑をかけることになる。

しかし、よく利用させていただく焼肉屋ではオーダーバイキング、時間制の食べ放題が設けてあることで、エンゲル係数の高い我が家では必ず食べ放題をオーダーするのだ。

楽しい会食が吉と出るか凶と出るか、それは私次第なのだ。

 

小学生のころは下校時間には必ずと言っていいほど腹が痛くなり、便意を催していた。

バスを利用するような距離に自宅はなく、登下校は子供の足で10分から15分程度はかかっていたと記憶している。

寄り道は禁止されていたが、そんな規則はどこ吹く風の児童たちは、公園や友人宅で遊ぶことが当たり前だった。

真っ直ぐ帰宅すれば、ギリギリか若干の余裕をもってトイレに落ち着くことができるのだが、寄り道をするとなると、それはもう命がけで帰宅しなくてはならなかった。

田舎の公園など、空き地にブランコやシーソー、砂場がある申し訳程度のものなので公衆トイレなどなく、また、翌日の学校でのからかいの的になることを避けるため、友人宅でトイレを借りるということは当然避けなければならなかった。

私の括約筋と便意、どちらが勝つか、誰も知らないところで闘いは日々繰り広げられていた。

 

小学校2年生、最悪の事件が起こる。

いつもは眼前100メートルに自宅を臨む頃に強烈な便意が襲ってくるのだが、その日に限って小学校を出て100メートルのところで襲ってきたのだ。

まるで「小学2年生の括約筋など恐れるに足らず」と言わんばかりに、肛門から出ようとする物。

明らかにオナラではないそれに対し、どこまで我慢できるか…いや、無理だ。

これは家に着くまでに漏らしてしまう。

そう、便意に意識が負けた瞬間、私はせめてもの抵抗で通学路にあった小屋の裏へ足早に駆け出し、誰もいないのを確認してズボンと下着を擦り下ろした。

瞬間、括約筋の緊張を押しのけ、飛び出してきた物が小屋裏のコンクリートの上に盛られていく。

肛門を拭く紙?誰かがそれを見つけた時に犬や猫の物ではないと騒ぎ立てる?

そんなことは知ったことではなかった。

下着にそれを付着させることで母に叱責される。そのことの方が怖かった。

 

便意から解放され、安堵したのも束の間、

「あー!こんなところで野グソしてやがる!!」

「うわー!本当だ!!くっせー!!」

という声に驚き、顔を上げたそこには数人の上級生の姿があった。

恥ずかしくなった私は下着とズボンを大急ぎで上げて帰宅。道中の記憶はない。

 

終わった。

終わったと思った。

これで明日から私の名前はウンコマンになる。

好きな子にも嫌われる。

友達とも遊んでもらえなくなる。

絶望的だった。

 

下着に付いたそれを母が叱責しながら洗い流し、二層式洗濯機へ。

下着は真っ白になり元通り。

私の心は元通りにはならなかった。

 

翌日、学校に行くことは億劫だったが、仮病で休むということはしてはいけないように感じたのか、いつも通りに通学。

そして、いつも通りのクラスメイトたち。

漏らしたことをからかわれることもなく一日が終わり、その後も相変わらず便意と闘いながらではあったが平穏な日々を送ることができた。

 

考えてみると、現場を目撃した上級生は5年生や6年生が中心だったように思う。

2年生が漏らしたことなど、もはや彼らにとってはからかいの対象ではなく、その場限りのものだったのではないだろうか。

これはあくまでも推測のため、機会があれば目撃者たちに話を伺ってみたいと思う。

 

かくして、ウンコマンの異名を与えられることなく現在に至っている。

しかし、便意と腹痛とに闘う日々は続いており、また、今日の夕飯は娘が担々麺を作ってくれ、これが大変に美味しく、4玉ほど替え玉しながらかき込んで食べてしまったため、呼吸困難を我慢しながら書いている始末。

学習能力のない夫を見る妻の目も厳しくなる一方である。

 

早食いをしないための自制心を養い、ウンコマンと呼ばれないようにしたい。

風呂のない家

私はとある田舎の温泉地の出身だ。

どこの温泉地でもそうなのか、この歳になるまで人に尋ねたり調べたこともないのだが、住んでいた家には風呂がない。

風呂がないため、「外湯」と呼ばれる地元の大衆浴場へ毎日足を運ばなければいけなかったことが苦痛だった。

何せ、猛暑の夏には帰り道で汗をかき、雪の降り積もる冬の帰り道では、温まった体が言えに着くころにはすっかり冷えてしまう。

「手がすべすべですね。何でですか。」

と、自身には自覚はないのだが、人からよく言われるこの言葉。

おそらくは温泉の効能の一つだと思うのだが、男の、しかも40を過ぎた私には少なくとも手がすべすべにおけるメリットというものを感じたことはない。

 

当時は母方の祖母が旅館に住み込みで働いていたこともあり、そこの女将さんをはじめとした一家で大変よくしてくれ、私は中学生卒業まではそちらの風呂を無料で借りることができた。

宿泊客があれば旅館の玄関は明るくされ、気兼ねなくお邪魔することができるのだが、そうそう古びた田舎の温泉地に足を運ぶ人も少なく、その玄関は薄暗いことがほとんどだった。

玄関を入ると正面に受付、左手に一枚の扉があり、そこを開けると従業員、つまり、その一家が食事したり休憩するスペースがある。

「行ったら必ず女将さんたちに挨拶すること。」

と、幼少期より母から言われていたため、気の小さい私は「お邪魔します。」「こんばんは。」と、小声でおよそ挨拶とは呼べない言葉を呟きながら扉を開ける。

いつも笑顔の女将さん。

気難しい顔をしているが、実は温厚な学校教員の旦那さん。

深い皺が刻まれた小さな顔の大女将。

私より10以上歳の離れた長男と、ガンダムのプラモデルが好きな二男と優しい笑顔の長女。

そして、住み込みで働く祖母とがそのスペースで優しく迎えてくれていた。

 

いくら祖母がいるからといって、毎日押し掛ける形で風呂を借りている他人の子を嫌な顔せず迎えてくれていたことは、今になってみると並みの人にはできないことだと思う。

当時の私は当たり前のことだと思っていたので、感謝の念を込めた挨拶はなく、社交辞令で済ます誰の目から見ても嫌な子供に映ったに違いない。

扉を開けて挨拶をして「お風呂をお借りします。」という一連の流れは、風呂のなかった家の子の儀式という感じがしていたに違いない。

 

大きな風呂で足を伸ばしてくつろいだり、小学生時分には泳いだりと、とても贅沢な時間を過ごさせていただいた。

小学校低学年までは父と入浴していたのだが、私以上に気の小さい父は挨拶もそこそこに脱衣所へ行き、浴場の電灯だけ点け、その薄明かりの中で服を脱いでいた。

父の仕事の都合もあり、一緒に入浴することがなくなった私は一人、旅館まで歩いていき、「儀式」を済ませたあと、まるでそうすることが当たり前の行動のように脱衣所の電灯を点けず、薄明かりで服を脱いだ。

逆に浴場の電灯を点けず、脱衣所の電灯だけで入浴することで気持ちを落ち着かせることもしばしばあった。

 

近くに運動場があったこともあり、何かしらの大会が開催されると多くの学生たちで大きな風呂が埋め尽くされる時期も年に数回あるのだが、それを除けば毎日大きな風呂を貸切ることができていた。

学生で埋め尽くされることがあると男湯の半分ほどの面積の女湯へと通されることもあった。女性が間違えて入ってくるのではと、どこかのラブコメのような展開を期待せずにはいられなかったが、そんなことはなかった。

風呂から上がって脱衣所の扉を見ると”掃除中”の札が下げられていた。ラブコメ的展開は期待できるはずはなかった。

現実は厳しいものなのである。

 

女湯に通されるなら良かったが、いつものように男湯でくつろいでいると脱衣所が明るくなると同時に飛び込んでくる騒ぎ声。

「来たか…。」

と、覚悟を決めていると、よく日に焼けた褐色の肌以外がシャツの形に浮きあがっている坊主頭たちが勢いよく浴場へ飛び込んでくる。

「おわっ!あちぃ!!……うわっ!湯が馬鹿みたいにあちぃんだけど!!ははっ!」

「こんな風呂入れるわけないじゃん!」

かけ流しのこの温泉地の風呂は、夏季には45℃以上になることも珍しくなく、地元民以外が入浴することは至難の業だった。

そんな湯に度胸試しで飛び込む学生、体に湯をかけていくうちに慣れてきたのか温まろうとする学生、様々あったが、体についた汚れを落としてから入浴する者はおらず、透明で熱い湯は、徐々に茶色くぬるい湯に変わっていった。

 

そのためか、テレビで高校球児を見るたびに、私の胸中は穏やかでなくなる。

これは私の密かな怒りだ。

 

そんな風呂事情ではあったが、夏には火照った体に、当時すでに古ぼけていた小さな商店で親に買ってもらったフタバ食品サクレレモンが冷たく染みわたり、冬には宿泊客たちの旅館での喧騒を遠く耳にしながら、しんしんと降り積もっていく、街灯に白く透ける牡丹雪を眺めながら、誰もいない小道を歩くなど、楽しみもあった。

 

35歳で家を建て、「風呂のない家」で過ごすことはなくなり、入浴後に汗をかいたり、湯冷めすることもなくなった。

実に快適そのものである。

しかし、ふと隣家を臨む浴室の窓を開放して、暑い夏に降る雨と濡れた土の匂いや、降り積もろうとする雪を眺めながら、入浴する自分がいる。

 

儀式と熱湯、球児に対する怒り、風情。

どうやら私の中の郷愁の念を呼び起こすスイッチのようなのだが、風呂のある家ではそれらを満足に得ることができないようだ。